2008年08月03日
筆まめな猿

豊臣秀吉は「稀代の人たらし」と言われる程、人心把握に長けていました。
直接対面での交渉は勿論ですが、手紙による凋落も有名です。
その「筆まめ」な秀吉の「手紙」展が、県立名護屋城博物館で開催されています。
戦国時代の日本の識字率は低く(江戸時代には世界トップクラスになるが)、名立たる戦国武将でもまとも文章が書ける人は少なかった。
ほとんどは『祐筆』と言われる現在の秘書(権限はもっと大きいが)に、草案まで含めて代筆させていた。
まして秀吉は貧乏百姓の出、文字など最初は書けなかったでしょう。
しかし頭良い人間ですから、経験を重ね出世をする毎に文書力も上がったでしょう。
直筆の文章も残っている様ですし。
仮に直筆で無くとも、草案を本人が考えたと推測できます。
この機会に秀吉の文章を楽しむのも良いですね。
豊臣秀吉朱印状(刀狩令)

秀吉が名護屋から正室の「おね」にあてた自筆書状

◎佐賀新聞(2008/08/03)
「筆まめ」秀吉の「手紙」展
豊臣秀吉が国内統一期から晩年までに発給した文書を集めた「秀吉の手紙展」が、県立名護屋城博物館(唐津市鎮西町)で開かれている。自筆書状や判物、朱印状など32点を紹介。文禄・慶長の役(1592-98年)に関する軍令が約7割を占めるが、豊臣政権の重要施策・刀狩令を発した朱印状などもあり、「筆まめ」と呼ばれる天下人に迫るテーマ展となっている。
秀吉の文書は全国で約6000点が知られており、織田信長(約1400点)や徳川家康(約310点)と比べ突出して多いのが特徴。テーマ展では同館が収集した秀吉文書を一堂に集めた。
1587年、家康に九州平定後の経略方針を伝えた文書には、「博多」に大陸侵攻のための御座所を築くことなどを明記。「名護屋」の文字はなく、この段階では博多を大陸侵攻の拠点として考えていたことが推測できる。
今回の展示で唯一の自筆文書は、1593年5月22日付で名護屋から大坂城にいる正室「おね」に送ったもの。朝鮮半島での戦況を伝えている。また、当時の文書では珍しく「追伸」があり、側室の淀殿が妊娠したこと(子は後の秀頼)に触れているが、この時すでに豊臣家の跡継ぎとして育てていた鶴松が亡くなっており、「2人の子どもは鶴松だけですよ」と、おねに気を使う内容となっている。
このほか、教科書にも出てくる刀狩令を記した朱印状や、漢文体で朝鮮在陣の武将に送ったげき文、秀吉の死後の日付になっている朱印状、朱印やあて先がなく案文か未発給だったと考えられる文書なども興味深い。
テーマ展では、秀吉文書に関連する資料や当時の武将の花押(サイン)など38点も展示している。
展示は9月15日まで。観覧無料。開館時間は午前9時-午後5時(月曜休館)。
【写真】自筆書状や判物、朱印状など秀吉が発給した文書を集めた「秀吉の手紙」展=唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館

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